漫画アクション50周年記念座談会「漫画アクションのDNAとは?」 

取材・構成/奈良崎コロスケ

『ルパン三世』(モンキー・パンチ)、『じゃりン子チエ』(はるき悦巳)、『クレヨンしんちゃん』(臼井儀人)、『この世界の片隅に』(こうの史代)……。数々のヒット作を世に送り出してきた「漫画アクション」は、いかにして誕生したのか?

知られざる半世紀前の創刊秘話が、ドキュメンタリー漫画の第一人者・吉本浩二のペンでひも解かれる。タイトルは『ルーザーズ~日本初の週刊青年漫画誌の誕生~』。初代編集長の清水文人を中心としたひと癖もふた癖もある編集者たちが、ゼロから青年漫画誌を作り上げる様が熱く活写される。

そこで今回は吉本浩二と『ルーザーズ』担当編集・三田村優、さらに現編集長・平田昌幸という3人が「漫画アクション」のDNAを徹底検証。何故"負け犬たち"という自虐的なタイトルが冠されたのか? その理由にも迫る。

吉本浩二 Kouji Yoshimoto

1973年生まれ。富山県出身。代表作は、「このマンガがすごい」2012年版オトコ編1位に選ばれた『ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜』や『昭和の中坊』シリーズ、『日本をゆっくり走ってみたよ〜あの娘のために日本一周〜』など。現在、「ビッグコミックスペリオール」にて『淋しいのはアンタだけじゃない』を連載中。

平田昌幸 Masayuki Hirata

1971年生まれ。1995年入社。2016年2月より漫画アクション編集長。主な担当作は『オールド・ボーイ』『おさなづま』『諸怪志異』『昭和の中坊』『ワイルド・ナイツ』『ぼくは麻理のなか』『絶望の犯島』『ウヒョッ!東京都北区赤羽』『弟の夫』。

三田村優 Yutaka Mitamura

1979年生まれ。2002年入社。「漫画アクション ピザッツ」「週刊大衆」編集部などを経て、2016年2月より「漫画アクション」副編集長。『BARレモン・ハート』『Odds VS!』『ハイポジ』、グラビアページなどを担当。

独自のバランス感覚こそが漫画アクションのDNA

●吉本先生が「漫画アクション」に参加されたのは2005年の『昭和の中坊』からですが、それまではどんなイメージをお持ちでした?

吉本 アウトローな印象ですね。20歳くらい年の離れた親戚のオジサンがいるんですけど、子供のころは、そのオジサンの本棚に『博多っ子純情』(長谷川法世/1976年~1983年)が並んでいて、遊びにいっては盗み見をしていました。あのころから「王道の漫画誌では描かれないようなキャラクターだな」って、子供ながらに感じていました。

●編集長は入社以来、漫画アクション編集部一筋とのことですが、学生時代は本誌を読まれていましたか?

平田 本誌よりも諸星大二郎先生と星野之宣先生が2大看板の「スーパーアクション」(1983年~1987年)が好きでしたが、中学生のときに休刊になってしまいました。本誌なら『迷走王ボーダー』(原作・狩撫麻礼/作画・たなか亜希夫/1986年~1989年)が好きでしたね。

●ちなみに入社されたのは?

平田 1995年です。当時『一平』(1993年~1997年)を連載されていた太田垣康男先生のファンで、担当の先輩に頼んでちょくちょく連れてってもらいました。そのうち先輩抜きでも会うようになりました。当時は2人とも20代だったんですけど、コタツで酒飲みながら「どうやったら漫画が売れるんだろう」みたいな話をよくしていましたね。

三田村 僕は2002年の入社で「アクションピザッツ」から始まり、「パチンコ10番勝負」「週刊大衆」と転々としてから、昨年漫画アクション編集部に入りました。入社当時の「漫画アクション」はアダルト向けへの路線変更から休刊とバタバタしている時期で、復刊したと思ったらとんがった作品をどんどん出して、「あの編集部はすげぇな」って思っていました。めぐりめぐって自分も編集部に入りましたけど、相変わらず編集部員は個性豊かで、熱い作品から人間の闇を抉る作品まで、いろんな作品を手掛けているなって印象です。

平田 『この世界の片隅に』の特集を毎号組むようになってから初めて「漫画アクション」を手にとられた読者も多いようで、SNSを見ると「なんであんな下品な雑誌に『この世界~』が載っているんだ!」って憤る方もいれば、「巻頭が知るかバカうどんで、巻末が『この世界~』って……。どうかしてる!」という方もいる。でもそういう感想を読むと、褒められてるって思っちゃうんです。

●「漫画アクション」って独特のバランス感覚がありますよね。

平田 もともと初代編集長の清水文人さんがバランスを大事にされていたそうなんです。かたい作品があったら、やわらかい作品も同時に入れるというような。『ルーザーズ』の取材を通じて「漫画アクション」黎明期の先輩編集者に話を聞くと、「どちらかに偏らないよう、常に意識していた」という証言がありました。

●そのバランス感覚こそがDNAなんですね。

平田 80年代後半も、バブルをとことん楽しむ国友やすゆき先生の『JUNK・BOY』(1985年~1989年)と、バブルに浮かれる日本を嘲笑う『迷走王ボーダー』が同時に連載されていました。雑誌に色を付けるのを本能的に恐れていて、それが50年間生き延びられてきた要因なのかもしれません。

吉本 そういう部分もあって「ここ(漫画アクション)なら自分も漫画をやれるかもしれない」と20代のころに強く思いました。絵柄も個性的な漫画がそろっていたので。それで一度、持ち込みに行きたいと電話をしたのですが、出ていただいた編集の方が「いまは持ってこないほうがいいと思いますよ」って。

平田 2000年の、エロ漫画雑誌にシフトする直前だったんですね(笑)。

吉本 いま思うと、すごく良心的ですよね。「ほかの青年誌に行ったほうがいいですよ」とまでおっしゃってくれて。

平田 ちなみにエロ漫画路線も10ヵ月後ぐらいにはやっぱり元に戻そうって事になったので、雑誌の色を明確に打ち出すと創刊以来のDNAが発動するのかもしれませんね。

●吉本先生しかり、こうの先生しかり、『鈴木先生』の武富健治先生しかり、確かに個性が強い作風の方が多いですね。そこにもモンキー・パンチ先生を見出した清水編集長のDNAが色濃く残っている。

平田 それはあります。ちなみに僕は「ヤングサンデー」の増刊に載った吉本さんのデビュー作をスクラップしていたんですよ。

吉本 え! 本当ですか。

平田 最初から目をつけていました(笑)。

編集者も漫画家も負け犬ぞろい!?

●例えば『絶望の犯島-100人のブリーフ男vs1人の改造ギャル-』(櫻井稔文/2013年~2015年)のように、他誌では敬遠されるであろう設定の作品も多々ありますよね。

平田 「面白い!」と思っちゃったんだから、自分の感性を信じるしかないんですよね。

三田村 どおくまん先生の『嗚呼!!花の応援団』(1975年~1979年)も、創刊3年目に入社された人が「面白い!」と思って手掛けたそうです。

平田 双葉社に第一志望で入ってきた人は編集部に誰もいないんです。いろんな会社を落ちて、双葉社に入ってくるんです。多くの会社に否定されてるから、入社した時から挫折感があるんですね。

三田村 漫画家さんも同様で、デビュー前のモンキー・パンチ先生は、同人誌を100冊くらい作って出版社やアニメ会社に送ったそうなんですけど、電話をかけてきたのは後の初代編集長清水さんだけでした。いわばモンキー・パンチ先生もルーザーズの1人なんですよ。

平田 流行りの絵とは違ったんでしょうね。でも、やりたいことが明確にあった。それが清水さんに伝わった。僕もそういう人に、ぜひ「漫画アクション」で描いて頂きたいです。それを手助けするのが編集者という仕事の醍醐味だと思っています。

三田村 今でも「漫画アクション」には漫画家さんや編集者が「これやりたい!」と思うことができる土壌があります。僕自身、『ルーザーズ』はやっていて非常に楽しい作品だし、やりがいがあります。

●吉本先生はさまざまな出版社の編集部とお仕事をされていますけど、比較してみて漫画アクション編集部はどんな印象ですか?

吉本 作家との距離が近いですね。一緒に雑誌をつくっている感覚。ほかの雑誌だと担当以外の編集者を、ほとんど知らなかったりもするんですよ。でも「漫画アクション」の場合は編集部にも顔を出しやすくて、皆さんに声をかけてもらえる。この前も帰りがけにお菓子もらっちゃったりして……(笑)。それは僕が「漫画アクション」で長く描いているせいもありますけど、受け入れてもらえている感じがするんです。

●取材は大変だと思いますが、『ルーザーズ』を描いてみて手応えはいかがですか?

吉本 やっていて楽しい作品ですね。僕自身、青年漫画史について知らないことばかりだったので。手塚治虫先生を中心とした漫画史の裏側で、別の漫画文化が根付いていったというのは、あまり知られていない部分だと思うんですよ。

平田 これまで誰もまとめようとしなかったし、まとめようがなかったんでしょうね。社員の入れ替わりも激しいですし。

三田村 20人採用されて3人しか残らないとか、離職率も高かったみたいです。なかには初出勤して、昼にはもう辞めた人もいたそうですよ(笑)。

●漫画の編集者の地位が低かった部分もありますよね。

平田 漫画は子供の読み物という空気があったのでしょうね。清水さんも文学に憧れていた人ですから。その文学的なところも確実にDNAに入っています。エロ漫画雑誌にシフトした時も「漫画アクションの依頼だから」という事で、いつも描かれているエロ漫画とは違う文学臭のするネームを描いてきた作家さんもいました。

漫画アクションには何度も神風が吹く

●「漫画アクション」といえば、低迷時に『がんばれ!!タブチくん!!』や『クレヨンしんちゃん』といったメガヒット作が救世主的に現れることでも有名ですよね。

平田 それは自分たちのやっている仕事を信じているからだと思います。例えば僕は入社して間もないころ『オールド・ボーイ』(原作・土屋ガロン/作画・嶺岸信明/1996年~1998年)を担当していたんです。

●2003年に韓国で映画化されて大ヒットしました。

平田 連載時はあまり話題にならなかったけれど、終わったときに土屋…というか狩撫麻礼さんが「俺たち、いい仕事したよな」って、フグをおごってくれたんです。

三田村 いい話だなぁ。

平田 その5年後に韓国で映画化されて、カンヌ国際映画祭でグランプリをとりました。そのタイミングでコミックスも復刊されたんですけど、電車に乗ったら隣の女の子が『オールド・ボーイ』を読んでいたんですよ。「こんな日が来るなんて!」と、すぐ狩撫さんに電話したら、「ちゃんと抱きしめたか?」って(笑)。

三田村 かっこいい!

平田 韓国の映画監督たちが日本の漫画の研究会のようなことをやっていてポン・ジュノ監督が『オールド・ボーイ』を本屋で見つけて、パク・チャヌク監督に「これ面白いよ。おまえ好きそうだから映画化してみたら?」って教えたそうです。いい仕事をすれば、世界のどこかで誰かが見てくれていて、バトンを渡すことができる。その気持ちは僕のなかにずっとあります。『この世界の片隅に』を映画化した片渕須直監督が、その事をまた証明してくれました。

●『ルーザーズ』には編集者と漫画家の"いい仕事"が描かれていくわけですね。

三田村 モンキー・パンチ先生を始めとして、バロン吉元先生(『柔侠伝』シリーズ)、矢口高雄先生(『釣りバカたち』)、小池一夫先生(『子連れ狼』)など、著名な作家さんの若手時代が描かれます。服装や登場の仕方にも注目ですよ。OB編集者の方にもたくさん話が聞けました。創刊に向けた彼らの集まり方も、まさにルーザーズです。まるで外人部隊のごとき寄せ集め感。

吉本 この『ルーザーズ』は「漫画アクション」の歴史を描いた作品ですけど、内容は若い人に向けている部分もあるんです。僕、新卒の大学生が就活に失敗して自殺したなんてニュースが流れてくると、いたたまれなくなる時があるんです。例え第一志望ではない会社に入ったとしても、一生懸命やることが大事なんだって伝えたい。僕は漫画家になる前、テレビ局の下請け制作会社に入社したものの仕事がきつくて1年で辞めてしまいましたが、ずっと続けていた同期が大きい番組のプロデューサーになっていたりもする。結局は会社じゃなくて人なんです。

●初代編集長の清水さんはクワガタの収集家としても著名な方ですが、いずれその話も出てきますか?

三田村 そのエピソードも、どこかで象徴的に使えるかもしれないですね。

吉本 取材を進めていくと、清水さんが漫画家という人種をいかに好きだったのかってことがよくわかるんですね。もしかしたら「漫画アクション」の執筆陣も珍しいクワガタを集めるような感覚だったのかもしれない。

平田 …………?

三田村 女性に対して、とっても奥手だったというお話も聞けましたよね。

吉本 どんどん人物像が立体的になっていくのが面白いです。

平田 僕も入社した時には退社されていてお会いしたことがないので、楽しみにしています。

日本初の週刊青年漫画誌は、編集者も漫画家もアウトローなルーザーが集結して築き上げたものだった! どこまでも熱く、泥臭い創刊物語。続きはぜひとも7月4日(火)発売の「漫画アクション7月18日号」よりスタートする『ルーザーズ』本編でお楽しみください!